Ennisのうつ病克服体験記

精神世界

僕のうつ病克服体験記、再掲にあたり

Ennisです。こちらは、私が約10年ほど前にメルマガ『こころの病の処方箋』で配信した文章を、再度こちらにお披露目するためにまとめたものです。「完全にうつ病から抜け出した」と言える状態になったのは2008年の2月のことでしたので、あれからもう12年ほども経つのですね。光陰矢の如しです。幸いなことに僕は、「服薬と休養」というアプローチで起きがちな「揺り戻し(うつ病の再発)ということは一切なく社会人の戦力として第一線で活躍し続けています。

人材紹介系の業界に身を置いている知人から聞くに、うつ病に一度罹患してしまうと社会復帰できるのは20人に1人とのこと。そして保険業界で営業をやっている人から聞くに、うつ病の既往歴というのは、ガンと同等レベルのリスクとしてカウントされており、それとわかれば保険には加入できない、とのことです。「こころの風邪」と呼ぶにはあまりに人一人の人生に与えるネガティブなインパクトが大きいです。私のうつ病克服の体験談が、今現在苦しめられている人たちのお役に立てばと思って、こちらに再掲させていただくことにしました。

Ennisの学生時代~社会人になるまで

僕は千葉県の進学校を卒業して、一浪し、私学の最高峰の一つと言われる大学の理工学部を卒業。そして大学院は都内の国立大学に進学し、無事に二年で修了して社会人生活を始めたのが2006年の4月でした。就職した会社も東証一部の大企業(東証一部へは1949年5月16日上場の老舗中の老舗です)。日本でおそらく名前を知らない人はいない会社でした。今思うと、正直ここに至るまで、どうしてこうも順風満帆な人生を歩めたのかと不思議に思っているばかりです(笑)浪人一年なんてのは、挫折のうちに入りませんね(笑)

半年以上に及んだ新人の研修を終えて実際の職場に配属されて、あくせく働いてそれなりに充実していたんですが、ふと、気付いてしまったのですね。5年後くらいには、隣にいる主任の先輩くらいの地位にいるのだろうか・・。10年後くらいには、向かいに座っている課長の席に座っているのだろうか?20年後には、かすんで見えるが部長の席にいるのだろうか・・。30歳前後くらいには会社の融資なんかを受けてマンションでも買って嫁さんももらい、35年くらいひたすらそのローンを返していくのだろうか。などなど。職場に居た先輩達は、ものの見事にそういうルートを、何の疑問もなく歩んでいる人たちでした。

自分が高校入学以降、死ぬほど努力に努力を重ねて得たものというのは、こんな程度のものだったのか・・。という奇妙な感覚に陥ったのです。天井が見えたような。頭打ちになったというか、ごく無難なところに自分の人生が閉じていくというような。そして日本の雇用慣行は良くも悪くも新卒一括採用の横並びです。東大だろうが無名の地方大学だろうが、大学院卒ということであれば新卒で頂ける給料は全く同じ金額です。

自分の人生が閉じていく感覚が怖くなって、そしてまた自分の能力が政党に評価さえていないような気分にもなって、自分の人生の可能性はまだまだそんなものじゃない!などと奮起して中国語の予備校に通ったり、資格試験を受けたりとか、いろんな人に会って話をしたりと、もがいていたわけです。こういうアンテナを張っていれば自ずと色々な情報は集まってくるのですが、そういう類のものは自分でしっかり取捨選択しなければならないということ、最終的な結果の責任は全て自分で負わなければならないということ、まだ社会人1年目の末だったものですから、青かったですね、分からなかった。純粋だった。

今でこそ、その経験は私の人格の中に統合されてその出来事自体には感謝していますが、私は生涯悔いることになるとても誤った決断をしてしまったのです。

悪意のない無責任

社会人の一年目に通っていた中国語の予備校に、ある外資系のコンサルティング会社のOBを名乗る方が在籍していました。話の面白い方だったので、授業が終わるとランチを一緒にとったりして色々な話をしていたのです。いまの職場で自分が感じていることとか、外資系の会社はどんな感じなのか、とか。そこで彼が言いました。「聞いた感じ、Ennis君は外資系の方が絶対に合っていると思うよ。僕の出身の会社を紹介しようか?」

言われるまま、彼の後輩だとか言う方々を紹介され、面接と言うことになりました。二回の面接であっけなく内定。彼らに言われたのは「君が大学院で研究してきたような、今の日本の構造的な問題を解決していく仕事をさせてあげよう。」「仕事は忙しいが、月に50時間を超えた残業については残業代が支払われる。今の会社と比べれば、給料は倍程度になるだろう。」「結果さえ出せば、半年単位で年俸は上がっていく。」ということでした。

これを聞いた僕は、とうとう僕にもチャンスが巡ってきた!などと舞い上がってしまったわけですね。新卒で入った(当時働いていた)会社が地方の独立行政法人などと癒着してやっていた汚いことなども見てきていたので、変な義憤もそれを後押ししてしまいました。そして数日後、止める上司の言葉も振り切って退職願を出し、新卒で入った会社をわずか一年で飛び出て、その外資系のコンサルティング会社に入ったのでした。

今思うと、予備校で一緒だった彼は「社員紹介制度」を使って小遣い稼ぎでもしたのかと。あるいはOBの身分で個人的に人材紹介業のようなものを営んでいたのかもしれません。転職のあっせんで、その人が実際に転職すればその人の年収の数割が懐に入るという仕組みになっていて、「転職させる」ということに彼らはインセンティブがあるので、基本的にはその会社の「いいこと」しか言いません。

新しい生活

狭苦しい独身寮を出て、自分で探して見つけた新築の素敵なマンションを借り、4月から新しい生活が始まりました。新しい会社ではわずか三日ほどの研修が終わり、配属先の発表になりました。当初、内定時点で私が配属されるということになっていた先は、夕張市などの財政再建団体や、それに近い地方自治体の経営改善のプロジェクトを手掛ける部署でした。

ところがどこで話が変わったのか、私が配属されたのは、ある金融機関の文書管理のプロジェクト。社内にある種々の文書が改ざんされるリスクはないか、それを防ぐためにどういう取り組みを行っているか。そんなことを延々とレポートにまとめていく非常に後ろ向きの仕事でした。(米国で起きた粉飾決算の事件がきっかけになって日本でもとみに導入の機運が高まった、「内部統制」という仕組みの整備のプロジェクトでした)

まあ、話は違うがまだ若いのだし、これも経験かと飲み込んで頑張ることにしました。ところが、ふたを開けてみたらノウハウの無い人間を寄せ集めて、しかも人数が明らかに足りないかなり無茶なプロジェクトで、配属された週から終電までの作業がほぼ当たり前の状況になりました。進むにつれて仕事が増えていき、終電はほぼ当たり前。週に二日程度徹夜。そして土日も関係なくその勢いで働き続ける。カラダが疲弊したのはもちろんですが、そんな感じで月に200時間ほど残業していたため、ものすごい金額の給与が入るはず、ということが僕のモチベーションになっていて、最初の月は耐えていました。

残業代不払い

ところが、給与明細を見て驚きました。入っていたのは基本給のみ。同じ時間を残業するのであれば、前の会社に留まっていた方が明らかに給与は上でした。人事とマネージャーに食ってかかったのですが・・。人事は「残業代を付けるか否かは現場のマネージャーの裁量ですので」マネージャーは「おまえ、残業代が欲しいなんて考えているなら、公務員にでもなればよかったんだよ」(今思うととんでもないパワハラ発言ですが、当時はまだ、ブラック企業という言葉もパワハラという言葉も一般的ではありませんでした)と、ふざけた回答でした。

これだけでも十二分にモチベーションが下がりましたが、しかしここは外資系企業。結果さえ出せばちゃんとその分認めてもらえるし、昇進昇給もある!と信じて耐えるしかないと、そのときは思いました。

ところがそのとき、社内のメールで連絡が来たのです。「アナリスト(当時の私の職位。要するに一番下っ端です)で入った人間については、最低2年間は昇進も昇給もなしとする。」という人事制度変更が行われたとの事でした。(労基にひっかかるのでそうははっきりとは書かれていません。しかし実態としてはそうとしか読めない内容なのです)

これにより、私は1度に三つの裏切りを受けたわけです。配属先は違う。給与も約束通り払われず、月200時間のサービス残業、そして昇進昇給の凍結により、この先2年間、この地獄のような職場に強制的に止められるわけです。

この時点で正直、私は罠だと気づきました。すぐに脱出のため転職エージェントに登録するのですが、人事に関わった方ならおわかりになると思います。一社目を新卒の一年で退職し、二社目を数ヶ月のところで止めようとしている人間など、転職市場での価値はゼロなのです。それでいて月200時間のサービス残業は続く。心身ともに疲れ果てて、寝不足で凡ミスをやっては個室に呼び出されて人格を破壊されるような罵声と恫喝を受ける。

そんな状況に耐えて五ヶ月が経った頃、通勤途中の電車の中で倒れました。1度目はまだ良かったのですが、2度目は意識を失ったようで、気付いたら駅の事務室、救急車がこちらに向かっているという状況でした。幸い入院するようなお話ではなかったのですが、激務で体に異変が生じたのは間違いないので、家族にも連絡を入れて状況について説明しました。

「カラダを壊したら元も子もない!」母はそう言いましたが、今逃げたら、本当に私はどこにも行く場所のない人間になってしまう。追い詰められながら耐えて、また一ヶ月ほどが過ぎました。

職場の横暴にブチギレるEnnis

地獄のような労働環境に耐えるのも5ヶ月目に突入して、夏休みのシーズンが来ました。お盆の5日間分の休暇は、私がアサインされていたプロジェクトでもみんなでずらしながら取得するという話になっていたので、私も一ヶ月前に前もって8月の中旬に取得する予定を入れて上長の承認もとり、親しい知人と伊豆諸島を巡るという旅行計画を立てていました。

ところが、代金の振り込みも終わってチケットも届いたその旅行の前々日になって、またとんでもない量の仕事がそれも後出しで降りかかってきたのでした。どう考えても、二日間徹夜しても終わる量の仕事じゃない。前もって言ってくれれば対処できましたが、今更どうにもできない。予約した旅行の数人分のチケットは全て私が持っており、しかも彼らは遠隔地に住んでいるのでいまから郵送しても間に合わない。つまり私が出向かなければこの旅行は全員分が無駄になるという状況なのでした。上司には相談しましたが「そんなの、仕事を先に延ばす理由になんかならんでしょ。キャンセル料なんて知らないよ。言ったこと片付けろよ。当然だろ」と取り合ってもらえない・・。

この会社の口車に乗せられたことで、もっとずっと条件の良い会社で長く働いていけた身分をかなぐり捨てた。好きでもない仕事を寝る暇も無く延々と、それもサービス残業でさせられ、昇進も昇給のチャンスもない。そして年に数度の休暇もすらも取れない。

ああ、つまりこの会社は僕から「ありとあらゆることを搾取する」ことしか考えていないのだな。と腹に落ちた瞬間でした。もう、辞めよう。同時にそう思いました。もう一度上司のところにいき、休みは一ヶ月以上前から伝えて承認も取っていた通り取得すること。そして遅延が生じたとしてもそれを前もって予見してこちらに作業を振れなかったそっちの責任だと伝えました。すると上司は激昂。売り言葉に買い言葉で私も堪忍袋の緒が切れて、近くにお客さんも居るプロジェクトルームで怒鳴り合いのケンカになりました。(家族以外の人間とこんなことをしたのは私の人生で後にも先にもここだけです。いまのところ。)声を聞きつけたもう少し上のマネージャーが割って入り、精神的に追い詰められて既に辞意を表明している私の状態を考慮して、2週間、考えるための休みをくれました。(これはこの会社で唯一、救われた出来事でした)

脱出はできたが・・。

もらった二週間で旅行はとりあえず片付き、運良く次の会社も見付けることができました。証券会社の社内SEで契約社員という身分ではありましたが・・。二週間の休み明け、出社してすぐに辞表を出して、身辺整理して2日で退職しました。この時はとにかく、地獄のような激務から解放されたことの方が大きくて、何も考えられなかったのですが、数日後に大変なことに気がつくことになりました。

さっさと辞めた2社目のその求人詐欺会社ですが、忙しいということは事前に聞いていたので本社に近いところに引っ越していたのです。新築のマンションだったので、随分と良い値段でした。でも、2社目の会社がちゃんと給与を約束通り払ってくれるのであれば何のことはない家賃だったのです。しかし、会社は基本給しか払わなかったために、この5ヶ月間、気付くと貯金を使い果たしていたのでした。

今月の家賃が払えない・・!」この事実には愕然としました。次の会社からもらえる給料は早くて一ヶ月半後であり、どうあがいてもその前に破綻してしまうのです。社会人2年目の中盤で所持金がゼロになるという事態にパニックになりはじめたのと、そもそもその家の家賃が高いために、次の会社の給与でもまたギリギリの生活になることが明白だったのです。

部屋にあるオークションに出せそうなものを全て計算してみましたが、どうあがいても足りない・・。引っ越し代金も無い状態でしたが、そこだけは母親に頭を下げて借りる形で、結局実家に逃げ帰る羽目になったのでした。

戻ってきたはいいものの、そこから次の会社の仕事が始まるまでの約一か月間、放心状態の日々が始まりました。結局のところ、私はその2社目の求人詐欺会社の口車に乗せられて、今まで血のにじむような苦労をして積み上げてきたもの(良い大学を卒業して、大企業に入り、そこで順当に出世していく)を棒に振ったのだと。1社目を1年で退社。2社目を5ヶ月で退社。そしてこれから契約社員に身を落とすという事実。転職市場で見れば、もう壊滅的に汚れたキャリアです。まともなセンスを持った人事の人間であれば人格を疑うでしょう。

「ちくしょう・・。やられた・・・。」

このグルグル思考が頭を離れなくなっていったのです。

メンタル負のスパイラル

最初の会社は親方日の丸のような、誰もが知っている大企業でした。自分で言うのも何ですが、日本の最高学府まで出た私。そして新卒で入ったという恵まれた身分。順当に、当たり障り無くやってさえいれば、相当良い待遇のエスカレーターの上を何不自由なく乗っていけたはずだったのです。お見合いだって引く手あまただったでしょうし(笑)、ローンを借りるのだって一発でOKだったでしょう。

それを、こともあろうにたった1年目の末にかなぐり捨てた自分。上司は「絶対に騙されて居るぞ」と止めてくれていました。それをバカにもふりほどいていった自分。普通にやっていれば、平均よりもはるかに高い生涯年収だったはず。それが今は契約社員。退職金もありません。

父さん母さんは惜しみなく僕に教育費用を出してくれた。だからこそ大学院まで行けた。それはひとえに、良い会社に入って欲しい、安心できる生活を送ってもらいたい。そういうことだったはず。それを棒に振った自分。

一体、自分のバカげた、間違った判断で、どれだけのモノを失ったのだろう。高校卒業後から本当に必死で勉強した時間と労力と、犠牲になった青春。

こういうグルグル思考を続けると、どんどん自分のことを世界で最も愚かな存在、存在してはいけない人間、万死に値する大罪を犯した人間・・・そんな風に追い込んでいくのです。

「死のう」

このまま生きていって、人に迷惑を掛けることしかできない。それであれば、誰にも気付かれずに、ひっそりと消えよう。その方が世界のため、家族のためだ。

この結論に至るのに二週間も掛かりませんでした。

スマートな脳みそで自殺の仕方を考える

それから、自分の始末の仕方を考える毎日が始まりました。死亡すると1000万円が支払われる生命保険に入っていたので、なんとか事故に見せかけて死ぬことはできないか。陸橋の上から飛び降りるタイミングを見計らったり。しかしこれはきっと自殺になってしまうのでダメだ。真夜中に袋を頭にかぶって窒息死しようとも試みましたが苦しすぎて断念。ダンベルを放り投げて頭を割って死のうと考えたこともありましたがこれも恐ろしくなって断念。なかなか上手く行かないのです。

自分を殺すという完全犯罪を行うためには知識が不足していると感じて、「完全自殺マニュアル」なる本を読みました。また、「自殺のコスト」という本も読みました。狙っていたのは、①「確実に死ぬこと」 ②「自分が死ぬことで、実家の不動産価値を下げないこと」 ③「第一発見者が家族という事態は避けること」の三点でした。

二つの本を参考にすると、死に方としては「首吊り」が最も良いらしい。死体は特に顔が変色し糞尿を垂れ流すのでむごいが、7秒の間苦しさに我慢すればすぐに意識が無くなって死ねるということ。そして、死に場所は徒歩15分ほどの近くにあるさびれたお寺の境内の裏が良さそうだと言うことに結論が出ました。

ホームセンターでなるべく首に食い込む、細いロープを買ってきて、結び方も理解しました。遺書も書きました。驚いたことに、大学時代に家庭教師で教えていた女の子が高校の第一志望に合格できなかったことにまで懺悔していました。とにかく、自分をこれ以上ないほどにクソミソにけなし尽くして貶めた遺書になっていました。うつ病の最中というのは、罪の意識の塊になっていて、何もかも全部自分のせい、自分の能力がないせい、自分の人間性が劣っているせい、そんな風に捉えてしまうのです。

ところが、夜中に襲ってくるすさまじい自己破壊衝動はその名の通り衝動的で、ある夜その絶望感と苦痛から一刻も早く逃れたくなり、準備したロープを衣装棚の横棒に掛けてそのまま首つりを実行してしまったんですね。高さが足りないために自分の体が完全に宙ぶらりんになることはできなかったので、思いっきり首に食い込むように倒れこむような形の姿勢を取りました。(後で知りましたが、このやり方は囚人などがドアノブに首を掛けて自殺して証拠隠滅を図ったりするときに有効なやり方だったそうです)意識が遠のいていき・・意識が戻ると私は倒れこんだ状態だったのですが、衣装棚の横棒が壊れて外れ、未遂に終わっていました。それと気づいて「自分はなんて恐ろしいことを試みたのか」と気づいてしばらくは死の衝動が抑えられるのですが、こんな具合の未遂を何度か繰り返していました。

ある日、両親ともが仕事で外出し、私が一人で留守番をしている日があったのですが、私の異変に気付いていたのでしょうか、帰ってきて玄関を開けた母がものすごい汗で肩で息をしており、「どうしたの?」と尋ねたら「ううん・・・あなたが大丈夫かなと思って急いで帰ってきた」と。歩いて15分ほどかかる最寄りの駅からの道を多分、全力疾走で掛けてきたのだろうと思いました。このとき、「僕一人の都合で死ぬべきじゃない、僕が死んだら家族も地獄行だ」と腹の底から思ったのでした。そして同時に、「この壊れた精神を何とかしないと」とおも思いました。そんな精神状態のまま、次の会社での仕事が始まってしまったのでした。

仕事と、治療と

精神的には毎日地獄のようですが、とにかく死ぬわけにはいかない。絶対世話にはなりたくないと思っていましたが、やむにやまれて心療内科のドアを叩くことにしました。最初に言ったのは、新宿にある結構有名な、繁盛している心療内科でした。
結構長く待ったのち、私の順番が回ってきたので席について話を始めました。ところが、先生は全く私の方なんか見てないのですね。こちらは一生懸命症状を話すわけなんですが、「はぁ」「はぁ」という空返事を繰り返すばかりで、こちらの話を聞いているんだかいないんだかわからないわけです。私の話の区切りを見付けると先生は言いました。

「そうですか、Ennisさん。とりあず、抗鬱剤と抗不安剤、それと睡眠薬を2週間分出しておきますから、それで様子を見ましょう。」

この間はほぼ五分ほど。あまりにあっけなく、拍子抜けしましたし、先生の態度にまったくこちらの話を聞く熱意のようなものを感じなかったため、頭に来て結局処方箋薬局にも行かず、そのまま帰りました。

まあ、先生との相性というのもあるのだろう。そう考えた私はまたネットで心療内科を探しました。次に行ったのは浅草橋にある心療内科でした。その頃には既に、ネット上で抗鬱剤などの副作用に苦しむ悲痛な叫びをたくさん読んでいたため、向精神薬への恐怖感はさらに強くなっていました。

この浅草橋での心療内科でも、態度はほとんど同じでした。5分ほどの問診のあと、「とりあえず、薬を2週間分出しておきますから、それで様子を見ましょう」

出される薬の主な副作用について知っていた私は、それらについて聞いておこうと切り出したところ、

「抗鬱剤の副作用なんて、聞いたこともないよ」

最初は耳を疑いましたが、先生は確かにそう言ったのです。ではネットに書かれているアレはなんなのだろう?(今思えば、私が向精神薬に無駄な恐怖感を抱かないようにという配慮でそう言って下さったのかもしれませんが、お医者さんのこういうスタンスが問題を余計に複雑にしているのは間違いありません。)

この先生もダメだと思った私は、途方に暮れました。次に行ったのは、会社の健保が提携している精神病院。1回1時間のカウンセリングが、年間5回まで無償で受けられるということで、これは良さそうだと思った私はそこへ向かうことにしました。

カウンセリング=有償の友情

会社の健保が年間五回まで費用を持ってくれるので、お金は掛からずこれは助かったのです。しかし、私を担当してくれた年輩の先生は臨床心理の資格を持っているとのことで信頼はできたのですが、本当に話を聞くだけ。それだけ。あとはひたすら雑談だけでした。これでもし一万円を自腹で払うとしたらまず行かないだろうなという内容でした。

結局、4回までは行ったのですがこれでは害もないが益もないと分かったのでそこでの治療は断念しました。親身になって相談に乗ってくれる友達がいたとしたら、という内容を有償で赤の他人が担ってくれる、そういう具合の内容でした。

心療内科やら精神科というのはこんな程度のものなのかとがっかりしました。結局最後は母に促されて、実家の近くにある内科に行きました。そこの先生も別に特段これというものは無かったのですが、開業医で余裕もあり私の話を随分時間をかけて聞いてくれたというのが今までは一番嬉しく、結局そこで抗鬱剤と抗不安剤二種類、睡眠薬を処方されました。

家に戻ってその薬を見て、とうとう来るところまで来たなと思いました。この自分がこんな薬の世話になる羽目になろうとは。しかし飲まなければ自殺してしまうのであれば、家族その他の為に耐えて飲もうと決めて、服用を始めました。

私に処方されたのは、抗鬱剤がパキシル、抗不安剤がエチカームとメイラックス、睡眠薬がゼストロミンという薬品でした。4種類を全部飲んで、真夜中に目が覚めた時の、あの何とも形容しがたい気分の悪さは今でも覚えています。背中全体を何か虫が這っているような、そして異常に体の火照ったような奇妙な感じです。これがその副作用かと思いましたが耐えるしかなく横たわっていました。

ネット上には、こういった向精神薬の副作用について書かれた患者さんたちの叫びのようなモノがいくらでもあります。私もそれを読んでしまっていて戦々恐々としていました。そしてそれらの副作用は私にも例外なく出てきました。

まず最初に気付いたのが、朝の体の重たさです。本当に気が滅入るようなだるさで、起き上がることができないのです。何かものを考えるのすら面倒な、疲れ切った日の夜にベッドに入るときの疲れのようなものに朝から襲われるわけです。これには本当に困りました。

向精神薬の副作用で廃人になっていく

朝がとにかく起きられなくなるために、私は遅刻の常習犯となり、職場での評価はどんどん下がっていきました。

次が、抗不安剤によるものと思われる副作用。集中力が非常に散漫になるために、普通では考えられないような凡ミスが連発するわけです。簡単なエクセルの操作ですら、そんな感じなのです。「彼が出すアウトプットはミスが多すぎて使い物にならない」そういう噂が職場では立つようになってしまいました。これも本当に辛かった・・。自分で言うのもなんですが、頭脳には自信があったし、仕事の速さだって自負がありました。プライドはズタズタになりました。

そして最後、抗鬱剤によるものと思われる副作用。パキシルの場合は、頭の中でシャンシャンという音がなるというのと、突然カラダに電気が走ったようなビリッと言う感覚を覚えるというものがあり、ネット上では「シャンビリ」と書かれていました。

私の場合も、「ビリ」は無かったのですがシャンシャンは出ました。シャンというよりもシャリシャリでしたが・・。頭の中で、誰かがリンゴをかじっているような音が鳴り続けるのです。これは気持ち悪い。仕事をしていても、リラックスをしているつもりのときでも、誰かが耳の横でリンゴをかじっているような幻聴がするのですから・・。

それと、顔が変形するほどの赤いニキビの群れに襲われました。これも鏡を見て凹むわけです。薬剤がかなり肝臓に負担を掛けているということだったのだろうと思います。これも長期的にはとても恐ろしいことです。

ああ・・。うつ病のおかげで、仕事もできない、遅刻ばかりの社会不適合、醜い顔のどうしようもないやつ。まもなく僕は廃人化するんだろうな・・・。これからこんな生活が一生続くのか・・。

死ぬことも出来ずにこんな灰色の人生を延々と。心の病を持った人の絶望的な状況が実体験として肌身を通して分かった時でした。

服薬は怖くて続けられない!

このまま、お医者さんの言う治療法、つまりは世間一般で言われている「服薬と休養」というやり方を続けていけば、間違いなく自分は廃人になる。そう思った私 は、ネット等を使って、他の方法を使って治った人たちの情報を必死になって集め始めました。(実際この頃、私の容態は悪化していて、彼は様子がおかしいという ことが職場の中でも広まって、腫れ物に触るような扱いをされ始めていました。中でも悪質だったのは、わざと聞こえるような大きさの声で「電車に飛び込んだりしなきゃ良いが・・。」というものでした。何故このような、崖っぷちで困っている人をわざわざ突き落とすような発言をする大人がいるのか理解に苦しみます。)

最初に目に止まったのは、TFTというものでした。Think field therapyの略で、東洋医学で言うところのツボを西洋医学が解釈しなおした、といった感じの療法です。上半身に点在するスポットと呼ばれるツボを軽く叩いていくのみのものなので、それまでの心理療法などに比べると革命的なものとされていました。

叩くツボは、心理状態によって個別に定義されており、怒り、悲しみ、嫉妬、うつ、恐怖などなど、色々なたたき方が書かれていました。

買った本は一気に読み切って自分で試してみたのですが・・。効いているような、いないような。可も無く不可も無くといったところでした。「実際に効果があるような施術というのは、認定セラピストに受けなければ云々」ということが書かれていて、それだと結局、一回受けるのに数万円という金額が掛かるというのが相場ということがわかり、何だかバイブル商法の類かと勘ぐってしまって結局これはすぐにあきらめてしまいました。

TFTからEFTへ

調べていて次に目に入ったのは、EFTというものでした。Emotion Freedom Techniqueの略で、症状によってたくさんの叩き方があったTFTをより簡単にして発展させたというものでした。TFTよりもたくさん関連書籍が出ており、私も三冊ほど買って読んで試してみましたが・・・。これも結局のところTFTと同じで、効いていないような。それで同じように講習を受けることの出来るコースがあるにはあるのですが10万円近くしたりと、似たようなビジネス展開をやっているものでした。

薬による治療法よりは、遥かに良さそうと自分でも分かってはいたのですが、これに身を投じるというところまでの覚悟は結局出来ませんでした。

やっぱりお医者さんが言う以外の対処法は存在しないのだろうか・・。ネットでの検索を続けました。次に見付けたのは、これまた怪しい、40万円ぽっきりで完治まで面倒を見るという催眠療法士の話でした。若い人が中心になって体験談を語っているサイトがいくつも立ち上がっており、今までのモノとはまた少しことなる趣向のものでした。ところが、他で探すと賛否両論というか結構酷いものもあり、最初に施術を受けたあとは二ヶ月待ちなんていうことがざらにあって、本当に彼の催眠術で治ったのかどうかというところがどうにも腑に落ちないという意見もありました。

電話してみたところ、ものすごく忙しい方なので直接電話が通じることはないとサイトに書いてあるのですがサックリとその催眠術師の彼につながり、やはり40万円と言われました。声を聞く限り、その感じは「きさくな良いオジサン」という感じでした。

40万円・・・。でもこれで本当になおって社会復帰できるのであれば安いかもしれない。カードのキャッシングの枠で借りれば出せない金額ではない・・。なにより、僕は他にもう手段と言える手段がないのだから。

思い詰めてお金をその方法で借りて、指定された銀行口座に振り込みを行おうとATMまで行きました。目の前には入金口が開いています。どうしたものか・・。本当にこれで治るのだろうか・・・。

いや、おそらくこれは違うだろう。ギリギリのところで私は引き返し、その催眠療法は受けなかったのでした。

最後の希望『NLP』(神経言語プログラミング)

結局、服薬と休養しか方法はないのだろうか。世の中に出回っている他の治療法は全然効果がないか、困った人を食い物にしているビジネスのようにしか思えない。なるほどうつ病の人たちが味わっている絶望の地獄というのはこういうものなのだな、と身にしみました。他に方法がないものだから薬を頼るが、薬は決して根本的な解決策ではなく、ボロボロになっていく自分をまさにその治療の過程で認識させられる。五体満足に生きてはいるが、心だけが崩壊していく。特に健康診断などでこれという明確な指標と診断が出るわけではないため、「気の持ちようじゃないの?」という程度の認識しか、普通の人はしてくれない。つまり、全く周囲の理解を得ることができない孤独感。これもまた心の病の地獄なのです。(特に、家族すらも理解してくれないということ。母は寄り添ってくれましたが、父は私の治療中、そういう状態になった私を責めるだけでした。)

そして、ネットの世界で掲示板などを見ても、ひとつとして治ったという報告がない。あるのはただ、辛い、苦しい、死にたいの大合唱。たまに何かの宗教のような書き込みが入ってわずかでも治るようなニュアンスのことが書き込まれると、その人は集中砲火を浴びる。解決策を模索してここに来た人はほとほと絶望するだろうなという内容なのです。本当に気が滅入りました。

仕方なく、また色々と情報を探すことにしました。偶然、再度TFTについて調べていた時にヒットしたホームページがありました。TFTも治療のメニューの一つとして扱っているという内容でした。そういえば自分がやったTFTというのは、本を読んで見よう見まねでやった我流のものであって、ちゃんとした人にやってもらったことがない。

そのページを上の方にさかのぼっていくと、何やら新宿でセラピールームをやっている男性のホームページでした。NLP(神経言語プログラミング)という体系だった学問的な催眠術でもってうつ病を改善させるという内容で、色々な施術の体験談が語られていました。120分で15000円という値段も良心的で、おおかたの人は3~5回目までに何らかの体感を得ると言う。これであれば10万円も掛からずに何らかの改善を期待できるかも知れない。

そう思った私は、そこに電話して予約を取ったのでした。

NLPの心理セラピーを受ける

セラピストの男性の方のお名前は、椎名雄一先生。ご自身もシステムエンジニアとしての激務から燃え尽き、うつ病を発症して自殺未遂までしてしまい、8年間は闇の中にいたという方でした。

予約を入れたのは2007年の12月の頭だったと記憶しています。その頃は西新宿にお部屋がありました。約束の時間に出向くと、ホームページの似顔絵そっくりの方がエレベーターの前で待っていてくれました。案内されて部屋に入り、セッションが始まりました。

まずはどういった経緯で悩むようになったのか、一通り自分から話す時間でした。1時間くらい掛かったと思います。順風満帆な人生だったこと。詐欺まがいの転職でそれを完全に狂わせてしまったこと。明らかに精神的におかしくなってきていること。そしてそのために職場で腫れ物に触るような扱いをされていることなど、辛いことを全部打ち明けました。

なるほど、なるほど、と先生は丁寧に聞いてくれました。ここまではカウンセリングと一緒でしたが、そこからが違っていました。

自分の体、というよりはまさに自分自身のその視点から見ている現実と、そこから少し離れて客観的にみている現実は全然異なるというワークをやりました。「今ここに座って悩みを打ち明けているEnnisさんを、またそのちょっと後ろから見ているEnnisさんというものを考えた場合、どういう感じがしますか?」

「悩んでいる患者さんがいて、それを打ち明ける相手であるセラピストの先生がいて、ああ、大変そうだなあ、という程度でしょうか・・。」

「そうでしょう。悩んでいる本人であるEnnisさんと、それを客観的に見られるEnnisさんと、実は二人分の解釈が出来るんです。後ろに立って客観的に見たEnnisさんからすると、どうですか?落ち込みたくなるような感情の起伏のようなものは感じましたか?」

たしかにそうなのでした。客観的に見ている視点には感情が伴わなかったのです。ドラマのワンシーンを見ているような。感情移入はあってもはるかに浅く感じられるだけのモノだったのです。

苦しくなったらまずこの視点を思い出すということと、2週間後次のセッションまでに自分が夢に描いていることを絵にしてくると言う宿題をもらって、その日は帰りました。

自分の夢を絵にするワーク

自分の夢を絵にする。そこに何の限界・制約も入れないこと、というのが先生からの条件であったので、本当に自由自在、妄想の続く限りの事を書きました(笑)パソコンのパワーポイントを使って、これでもかというくらい。一軒家を手に入れる、ハイブリッドの車、カナダ、ウィスラー山へのスキー旅行、プリンとココアの美味しい店を開業する、レースクイーンのお嫁さん(笑)などなど。凄い内容でした。

それを持って2週間後のセラピーに出向きました。それを見せたところ、先生はたいそう驚いて(笑)ここまで緻密なものをしかもパソコン使って書いてくるというひとは初めてですと言われました。確かに、書いている間は自分が好きなことだったこともあって無心に、童心に帰っていたように思います。その絵についての話を少ししたあと、また催眠のセッションが始まりました。

寝る直前の状態にまで意識を落としていき、顕在意識が邪魔して表に出られなくなっている本当の願望や希望といったものを顕現させるというセッションでした。カラダ全体の力を、あごや肩から初めて徐々に抜いていき、最終的にはぐにゃぐにゃの、そして重たく感じる状態にまで持っていきました。

「いま、どんな感情がわき上がってきますか?」

その問いかけがあったとき、なんとなくそんな気がするというレベルですが「頑張りすぎだよ」「報われないなあ」「辛いなあ」そんな言葉が口を突いて出てきました。それと同時に、不思議とほろほろと涙も出ていました。少し心の重みが取れたような感じがしてスッキリしたのを覚えています。

ここで2回目のセッションが終わりました。次のセッションはまた2週間後、年末も年末、というタイミングでした。

3回目のセラピー、これという実感なく終わる

3回目のセラピーは、まず再度の誘導催眠から入りました。寝る直前の状態にまで、体をリラックスしていきます。そこで、理想の幸せの形はどんなイメージですかという問いかけがありました。

広い土地に広い家。家庭菜園の出来る広い庭。長男と長女、最近飼い始めて長女が面倒を見ているフェレットの愛らしい顔。台所で朝食を作っているポニーテールのお嫁さんが僕に向かってにっこりと微笑んでいる。

長男は町内会の野球チームに所属しているのでスポーツ刈りだ。長女は、新しい家族であるフェレットのしつけに一生懸命だ。ようやく、トイレでちゃんと用をたせるようになったと喜んでいる。

では、エニシさんのその幸福のイメージを象徴する、ポーズ、指の動き、あるいはフレーズでも構いません。何か一つ、決めてみて下さい。そういわれたので、私は両手の5本の指を左右で合わせるという形を作りました。

これから、エニシさんの幸福のイメージは、その指の動きをとったときに、鮮やかに思い出されます。いつでも、どこでも、好きなときにそのイメージを呼び出して、幸福な感じを思い出してあげて下さい。これは、呼び出せば呼び出すほど具体的に、強く、そして鮮やかで強烈なものになっていきます。

これが、アンカーリングという手法でした。特定の感情の動き、状態にそれを象徴する体の動きを結びつけることで、その感情をいつでも簡単に呼び出すという手法です。イチロー選手がバッターボックスに立って、ユニークな手の動きをパンパンパン!とやりますが、あれがそれなのだそうです。

次に、過去から未来に向けて自分の感情を書き換えるというセッションを行いました。

床に貼られた5つのポストイットが、それぞれ過去から未来までの時間軸を示しているとのこと。このセラピーに至るまでの時間と、これからどうなっていくのかということを想像しながら、それぞれのポストイットの上に立って、それぞれの時点での感情を象徴するポーズを取っていきました。

「Ennisさんにとって、回復する時点というのはいつだと思いますか?」

そう言われたので、「そう遠くない未来。まもなく」と答えました。

「では、最も先の時間のポストイットの上で、その回復したEnnisさんがどういうポーズを取っているでしょうか?」

と言われたので、うつ病を克服した、自信満々の、過去の自分をはるかに超える力を手に入れた私ということで、胸を張って上を見た姿をしました。

「では、その姿と気分のまま、そこまでの時間の上を全て歩いて見て下さい」

私は指示通り、貼ってある過去からのポストイットの上を、胸を張ったポーズで順にあるいて行きました。

全ての時点を示すポストイットの上を歩き終わると、確かに、上書きする元となった自信満々の自分の気分がストンと腑に落ちたというか、低いところでうろうろとしていた気分が随分と楽になった感じがありました。なるほど、と。これで3回目のセラピーは終了しました。

しかし帰りの電車の中で、これといって正直、劇的に何かが変わったのかとい言われるとどうもそれは違うという感触も残っていました。最後の頼みの綱であった催眠療法でもこのくらいの効果なのかと・・。一生懸命アンカーリングを使って幸せのイメージを呼び戻したりもするのですが、正直こんな事に頼る自分も来るところまできたものだと、そんな感情もありました。

良くなったような、なってないような感じのまま、年明けを迎え、また仕事が始まりました。するとそこには何も変わらない現実が待っていて、また気分が下がり始めました。やはり自分は取り返しのつかない選択のミスをして、もうあとは落ちていく人生なのだと。それでいて死ぬこともままならず、この灰色の感じが延々と続くのだと。

その感じに耐えるのに限界が来たのが二月の頭でした。しかし頼るのは催眠療法しかない。四回のセラピーを予約しました。しかしもう先生にこれ以上の対策があるのだろうかと思っていました。当日は記録的な大雪が降って、都内の路線のダイヤは乱れているとのこと。僕も行くのをためらいましたが、一刻でも早く自分の心を立て直さないと大変なことになるという焦りから、足を運んだのでした。

4回目のセラピーで、劇的な経験をする

4回目のセラピー。正直、このまま120分15000円のセラピーを何度も受け続けて出費ばかりがかさんでいくのではないかとか思っていました(笑)しかしもう、頼るところはここしかない。

席に座って先生と話し始めると、また堂々巡りの話を始めていました。やはりあの会社へ転職したのが致命的な間違いだったと。そして最高だったハズの人生を棒に振ってしまったのだと。

一通り聞くと、先生はまたポストイットを床に貼り始めました。正方形に九つを貼り、その外側にもう一つ。「甲」という漢字のそれぞれのポイントにポストイットを貼ったような感じです。

「外側にある一個の上に立って下さい」

そう言われたので、そこに立ちます。

「Ennisさんから向かって、一番手前が過去、その奥が現在、そしてさらにその奥が未来を示します。時間軸です。そして、向かって左の一列が『パートナー』つまり、母親でも誰でも良いですが、寄り添って応援してくれる方。向かって右の一列が、『メンター』つまり、尊敬する人や、助言をくれる人、目的とする人です。誰か思い当たる人がいますか?」

私は、パートナーには母を、メンターには大学院時代にお世話になった教授を置きました。

「今Ennisさんが立っているのは、全てを超越した神の視点です。どうですか?」

「はあ、何かEnnisとかいう若い人間の男が悩み苦しんでいるようだ。そんな感じでしょうか」

「そうですか。では、過去のお母さんの位置と視点に立って下さい。そこから、過去のEnnisさんにどういう言葉を掛けたいですか?」

「うーん、別に勉強しろとかガミガミ言わなくても、自ら勉強して誰もが羨む国立大学まで行ってくれた自慢の息子だわ」

「では次に、過去の教授から、Ennisさんを見るとどうですか?」

「何も言わなくても学会に発表は行くし、研究助成費なども引っ張ってくるし、本当に手の掛からない優秀な学生だった。」

「なるほど、立派ですね。」先生はそう言いました。

次に、現在の母と教授からコメントを貰います。

教授「随分と酷い目に遭ってしまったようだが、今こそが踏ん張りどきだ。ここを耐え抜いてしまえば、もの凄い飛躍が待っている!」

母「どんな困難だろうと乗り越えてくれると信じているわ。」

同じように、未来でもコメントを貰います。

教授「とうとうやったな!さすがはEnnisだ。おめでとう!」

母「本当におめでとう!私も親として鼻高々だわ。」

「なるほど、Ennisさんは素敵な方々に囲まれて幸せですね。」先生は言いました。それでは、以上もらったコメントを念頭に置きながら、神の視点にまで戻って下さい。そして、過去から順に、自分の位置のポストイットに立ってみて下さい。

言うとおりにしてみました。神の位置に立っても大して何も感じなかったのですが、次に過去の自分の位置に立ったところ・・・。訳が分からないのですが、突然、滝のような涙が出てきてしまったのです。そして、床に突っ伏してそこから10分ほどは延々と泣いていたように思います。先生はティッシュを持ってきてくれました。

「Ennisさん、どんな感じがしますか?」

「僕の人生は伝説のようだ」そんな言葉が口を突いて出たのです。これは本当にもう、理屈ではなくて、そうポツリとつぶやいてしまったのです。そして次に現在、未来と自分の位置のポストイットに立ちますと、未来の世界で、大勢の生徒を前にして堂々と、そして楽しそうに授業か講演のようなものをやっている自分が見えました。口ひげをたくわえて、ダンディな感じです。

「ここまで来ることができることはもう、確定しているんだ。もう少し、もう少しの辛抱だ」その未来の自分が僕に言ってくれている気がしました。

そして、過去から未来に向けて、僕にはもの凄い追い風が吹いていました。

4回のNLPセラピーを受けて

NLPのセラピーは、正直なところ3回目までは半信半疑というよりもかなり疑わしいものと思っていました。しかし、藁をもつかむ心で受けた4回目のセラピーの効果は劇的でした。いままでずっと低空飛行だった自分の心のテンションが、スコーンと上がってそこから下がらなくなったのです。セラピストとの間にできた信頼関係などの要素もセラピーの結果に大きく貢献するので、複数回目、それも回を重ねるごとに効果は出やすくなるのだそうです。

「もうこれで大丈夫だ」そう腑に落ちたのがその4回目のセラピーでした。そこから二週間ほどの単位で、向精神薬の類は半分半分にどんどん減らして、あっという間に卒業することができました。2008年の3月の話でした。

以前の元気な僕に戻ったので、将来について色々と考える余裕も生まれてきました。そのとき勤めていた証券会社。ここに留まっていて良いのか?もっと自分が能力を活かせる仕事をした方が良いのではないか。そう思って、転職エージェントに登録しました。社会人2年目で3度目の転職、4つめの会社を探している自分。

以前の私だったらそこに感じるのはもはや「破滅のイメージ」だったのかもしれませんが、「何とかなるでしょ。これくらいハチャメチャだった方が、あとで僕の伝記を書いたときに面白いでしょ。」なんて考えていました(笑)なんと、登録してすぐ、ある大企業をスピンアウトして独立した方々が創立したベンチャー企業から、お声がけがあり、すぐに面接という運びになりました。

そして迎えた勤め先である証券会社の決算期。何やら不穏な雰囲気の中、終業後、全社に向けて社長から通達があるとの連絡が入りました。

「サブプライム危機のため、親会社から莫大な金額の融資を受けなければ会社が存続できない状況に陥った。全社で25%のリストラを断行する。」

周りの人たちは顔面蒼白になっていました。

折良く内定をゲットしていたEnnis

リストラの発表があったタイミングで、実は折良くそのベンチャー企業の社長さんから内定の連絡を頂いていたため、蛙の顔に小便という感じでした(笑)私にとってみれば、良いタイミングで会社を抜け出す口実ができたようなものです。

実際には、まだ年齢も若くギャラ的にもそこまでの高額はもらっていませんでしたので、特にリストラの対象にというわけではなかったのです。ただ、私のいた部署の部長はクビということになり(新卒で入社し、30年余りをその会社で生きてきたベテランの部長でした)部署取りつぶし。別の部署に吸収されることになり、消滅するということになりました。法務部門ということだったので、すでにつまらなかった仕事が余計につまらなくなるということを予想した私は(笑)さっさと辞表を書くことにしました。

名だたる大企業から、ベンチャーへ。リスクは当然あると思いましたが、今の自分の能力を全く活かせてない状況に比べれば、きっともっと活き活きした自分がいるはずだと考えました。内定をもらったあとに何度か面会の機会を得て話したその会社の上司の方々などもとても素敵な人たちで、印象も良かったのです。

そして、私は2008年の6月、そのベンチャーに移ることになったのでした。

セラピストの先生が、うつ病から立ち直って社会生活を始めた人向けに、ということで「うつ再発防止プログラム」というものを始めるという連絡をくれました。休みの日を使って、色々な再発防止のセラピーをやるとのこと。まだ試みの段階であるので特にお金は取らないということでしたので、私はこれにモニターとして参加させて頂くことにしました。

移った先の会社で仕事も楽しくなってきていたので、どんどんエネルギーは上がってきていました。

うつ病再発防止プログラム

そのプログラムには、既に私と同じようにNLPによるセラピーで回復過程にある方々がたくさん参加していました。色々な経緯でうつにまで追い詰められた方々がいて、それでも皆さん数回のセラピーの中で回復されて、元気そうでした。

その中で、同窓生のシステムエンジニアさんが何か本を持ってきていたのでした。船井幸雄さんが書かれた本です。そのときの私は、船井幸雄というと辣腕の経営コンサルタントで、多くの経営者がそうであるように、晩年に行くほど精神論に傾倒していく、そういう過程にあってどうも曖昧な話に始終している方というイメージがあったので、特に興味も湧かなかったのですが、「いま二人が一番伝えたい大切なこと」というタイトルだったものですから、一体何が伝えたいのだろうと、大人物がいまわの際で(笑)で何かメッセージがあるのだろうかといぶかっていたところ、その本を持ってきたSEの彼は快くそれを貸してくれたのでした。

『これから先の数年の地球に起きる大きな変化、ネガティブなものもポジティブなものも含めて、今まで経験のしたことのない変化が起きる』。色々な具体例を挙げながらそういう過程にあるということを述べていたのですが、ある一説に「地球は空洞である」という話が出ていたのです。

いやまさか・・。私は理工学部の資源工学科。地震探査も実験などで手掛けてきた分野でしたし、地球の反対側で起きた地震の波が、逆側に届くまでの時間なども計算したこともあり、実際それで実験をしてみると結果は地球に中身が詰まっていないと説明できないことも知っていましたので、オカルトだと切って捨てたのです。

ところが・・。

その地下の空洞世界に迷い込んだ、ある米国空軍の兵士が撮影したという航空写真があったのでした。

地球空洞説

不思議な写真なのです。似たような航空写真のとれる風景はありそうだが、地球上のどこの風景ともとらえがたい。どこかの田園風景と見えなくもないが、こんなに真っ平らなところに延々と田園風景が続く場所というのがあるのだろうか。ところどころに低い雲が立ちこめていて、霧のように覆い被さっている。あちこちに集落のようなモノが見えて、驚いたことに白いピラミッドまで点在している。

この写真を見たとき、なんというのでしょう。言葉では表せない強烈な「懐かしさ」のようなものが私の中にこみ上げてきたのでした。理屈では説明できない何かなのです。

「ああ、懐かしいなぁ・・・。」

そうとして本当に言い表せないのです。同時に、満たされた安堵感、安らぎといったもので心が満たされていくのです。「もう大丈夫」そんな感じです。

この日を境に、自分の心はさらに高いところで安定するようになり始めました。
何が起きようと、例え地球が原始時代に戻るようなことがあっても最後まで前向きに生き抜いていけるだろう。地獄の底を見てきたのだもの、底を打ったのだからあとは一辺倒に昇っていくだけの人生だ。その確信を得たのです。

そして、今に至る

あの航空写真を見た日から、一度も大きな落ち込みを経験せずに今に至ります。今、あれからもう12年が経ったというところですね。

あの日以降、本当に色々なことがありました。なんとリーマンショックの煽りで、私が勤めていたベンチャー企業は倒産してしまったのです。でも、そのたびに「別に何も心配する必要は無い。物事は全て最適な方向に動いていくし、最悪の事態に陥ったとしても、心さえ健康であれば何度でも立ち上がれる。」ということが不思議と心のなかにありました。

実際、そうでした。倒産には出くわしましたが、知人の弁理士さんが勤めている特許事務所での仕事を斡旋してくれたり、そこでパートとして働いているうちに一ヶ月も経たずに次の会社が見つかったり。極めつけは、私が始めたうつ病の患者さん達向けのメルマガを含むこういった社会福祉的な活動を『副業』と決めつけた心ない方々によって懲戒が発議されたのですが、これをきっかけに始めた転職活動でまた理想的な会社が見つかったり・・等等。転職の都度年収は上がり、私の生活はどんどん自由になってきています。

『現実の世界というのは、自分の深層心理を含めた心がもたらしている鏡像である』と、スピリチュアルな世界では言われていますが、私にとってそれは真実です。こころの病を克服した途端に現実の方から変わっていって凄いことになってしまった人というのが、枚挙に暇が無いのです。一例として、私と同じ先生のセラピーを同時期に受けていた女性のエピソードがあります。彼女の場合は『おむすびのレストランをイタリアに開きたい』という夢を明確にすることでうつ病から回復していったのです。なんとこの夢のビジョンが、あれよあれよという間に叶ってしまって彼女はイタリアに旅立ってしまったのです。これには本当に驚きました。(このお話の詳細はまた後日)

私の場合、幸せになるというのは、決して知識を詰め込んで難しい本を諳んじることができるようになることでも、能力や論理で誰かを屈服させてデキるサラリーマンになることでも、そしてお金をひたすら貯め込むことでもなかったようです。随分と回り道をしたものだなと(笑)うつ病の経験は、私にそれを思い出させるためのイベントだったのかも知れません。

ここで、私のうつ病克服体験記はおしまいです。決して普遍的なものではありませんが、『服薬と休養』に頼らない回復の1事例として、心に留めておいて頂ければと思います。

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