どうして宇宙が必要だったのか?
瞑想による変性意識状態を通じて情報のやりとりが可能な知的生命体の皆さんから頂いた知識であったり、スピリチュアル系のいろいろな書籍から得た知識を総合して考察するに、どうもこの宇宙というのは『敢えて作り出した諸々の不自由だったり課題といったものを少しずつ克服していく』というプロセスを楽しむためのいわば自作自演の世界なのではないか、と考えています。
例えばなのですが、映画なりドラマを制作する際に、一人の悪人も出てこない、何の困難も待ち受けていない、親切な人しか出てこない、敵も出現しない、みんな幸せに、何一つ不自由のないくらしをしていて、それがひたすら日常として続き、永遠に楽しく暮らしていきました、そんなお話には皆さん、全くといっていいほどに興味を抱かないのではないでしょうか?映画の「ジョーカー」は、これ以上ないくらいの悪役の代表である彼が、そういう悪になるまでの軌跡・プロセスを物語にした作品ですが、最強・最凶のジョーカーであるからこそ面白味がある。悪が悪になるまでのプロセスを知れば同情もしたくなるかもしれませんが、それが理解できたからといって道徳的には悪になるわけにもいかない。これは物語だからこそ許されるのですが、要するに人間の魂というものは、学びというべきか暇つぶしというべきか、善も悪も、ポジティブもネガティブも、可能も不可能も、理論も理不尽もある程度のバランスで含まれていないと意味のあるものとして感じることができないのです。
完全な自由には「生きた実感」がない
明晰夢の世界では、自分が念じたものは一瞬で物理的な体積をもって目の前に現れます。家であっても自動車であっても食べ物であっても。一切の不自由のない世界です。これは、全人類の究極的な悲願といえる。おそらく人類が費やしている努力のすべては最終的にはこういう世界に至るということを目指しているでしょう。
しかし、いざこの世界を体験してみると、あまりにも自由すぎてしまってものの数日で飽きてしまうのです。昔、プレイステーションに組み込んでゲームの中身を改変してしまう「プロアクションリプレイ」というチートの機材が存在していて、これを使うと例えばロールプレイングゲームの世界のお金を無限に増殖したりといったことが可能になる。物語が始まった序盤に、主人公は無限に近い大金を持っているために最後のボスを一瞬で葬ってしまう武器を軽々と購入できる。これをやってしまうと、ゲームバランスが崩れてなんともおもしろくない、つまらないゲームができあがります。ゲームが楽しいのは、そのゲームを楽しめるようにクリエイター側が入念にバランスを調整して、「簡単過ぎないように」しているからなのです。これを恣意的にいじってしまうと、途端にまったくおもしろくないゲームになるのです。これと同様に、我々が生きている地球だったり宇宙だったりの世界が制約に満ちているのは、「そうでないと楽しめない」からだと思うのです。
人間はなぜ鳥のように飛べないのだろう?→だからこそ空への夢が航空力学として編み出されて誰もが安全に空を飛べるようになるというプロセスを楽しめた
人間同士、なぜ理解し合えないのだろう?→完全に理解できたら自分と他人の境界などなく、同一人物になってしまう。一昔前にはテレパシーといわれたことが、携帯電話によって当たり前になってきている。そういうプロセスを楽しむことができた
なぜこうも世界は貧困に満ちているのか?→資本主義の仕組みの限界と欠陥に気付いてより優れた、比較的多数が幸福になれる仕組みを考案するというプロセスをこれから体験する
こんなふうに、人類の集合的無意識は、地球上に生きる人類としていろいろと経験して楽しめるように、おそろしくリアルで物理法則で運営されている、いろいろと限界のある世界を作り出してそこで体験型のドラマを演じているということなのではないかと、そう思うのです。つまり、我々の宇宙は自作自演の最高にリアルなホログラフィーであるということで、この思考実験の帰結は、ホログラフィック・ユニヴァース、宇宙ホログラフィック理論につながっていくのですね。
そして、自作自演(自分自身で作り出している)からこそ、自分たちでコントロールして、再度創造することが可能なはずです。
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