ヘミシンクもある程度熟達してフォーカスの21近辺までを行き来するようになると、「考えたことがすぐに物質化する」という世界を見ることがしばしばあります。これを聞くと皆さん、「それは素敵な世界ですね」と言ってそこを体験できるというところにヘミシンクなり瞑想なりを行うモチベーションを持って頂けることはとても良い事なのですが、そこへ行ってみると分かります。「三日もすると飽きる」ということ(笑)
現実を鮮やかにするために、不自由が必要
イメージしてみて頂きたいのですが、「スーパーマリオ」というゲーム。主人公のマリオを待っているのは山だったり谷だったり、触ると即死する亀(どれだけの毒を持っているのか。実際亀の持っているサルモネラ菌はとても危険な菌ですが)が待ち受けているステージの数々です。これらをどう乗り越えて、倒していくかというところに試行錯誤してマリオを操作するところにこのゲームの醍醐味があります。
ところが、ゲームがスタートしたらばこのステージがただただ平坦な道で、Bダッシュで最後まで駆け抜けてポールにつかまって終了、というモノばかりだったりだったらどうでしょう?こんなのが1-1から8-4まで続いていたら、「こんなつまらないゲーム、2度とやりたくない」と思うはずです(笑)
同様に、プレイステーション(第一世代)の時に一部のゲーマー達にカルト的な人気を誇った「プロアクションリプレイ」というハードウェアがあります。プレイステーションのポートに取り付けて、内部のメモリにハッキングを掛けてゲームの内容を改変してしまうという代物で、ゲームの制作者の意図からどれだけぶっ飛んだ遊び方ができるか、というのを競っていたものです(笑)オリンピックを模したゲームでは100mを2秒で走るランナーですとか、棒高跳びで100mを飛ぶ選手ですとか、そんなメチャクチャなことをして楽しんでいました。
当然ながら、このプロアクションリプレイを使うと、RPG系のゲームだと冒険の冒頭からラスボスを瞬殺できる強さを主人公に会得させたり、なんでも好き放題に買えるだけのお金を入手したりすることもできます。
ところが、これをやってしまうと「何とも空虚なゲーム」が出現します。強いボスを倒すために経験値を貯めようと雑魚的と戦い続けたり、強い武器を買うためにお金を貯めたりということが全く必要無くなったのはいいのですが、あっという間にゲームは終わってしまうのです。ゲームというのは、プレイヤーが楽しめるように計算してゲームバランスが組まれており、丁度良い困難が設定されているからこそ楽しめるのです。
ホログラフィックな宇宙で、「不自由を克服する体験を」
宇宙ホログラフィック理論は、この我々が生きている宇宙は一種のリアルな映像、という理論ですが、超高性能なVR(バーチャルリアリティ)の世界に私たちは身を置いていて、「適度な不自由とそれを克服していく体験」というのを純粋に楽しんでいるという捉え方をすると、色々な理不尽の類いもある程度客観的な眺め方ができるようになります。世界には戦争も貧困も難病もあり、こういった困難を克服していくために努力している人達が大勢いる、毎日乗って通っている会社での仕事は、自分が選んだわけでもない上司から理不尽な指示を受けて四苦八苦だが、そこから抜け出すために新たな資格の獲得と転職に向けて準備を進めている自分がいる、とか「困難⇒克服⇒つぎの困難⇒それも克服」ということを続けている限りは少なくとも自分は「何も起きない虚しさ」とは無縁でいられます。そんなわけで、我々はおそらく「集合的無意識」の部分で、我々自身が退屈をしないように、困難を含んだ現実を延々と創造し続けているのかもしれません。
現実=心象世界の鏡像という認識
こんな感じで、「自分の体験している現実は、究極的には自分の魂の深い部分から出てきている」ということが何となくでも腑に落ちてくると、自分ではどうにもならない、流れに任せるしかない、と感じていた現実の方が段々と友好的になってくるということを感じるようになってきます。Enishiもこちらスピリチュアルな世界に足を踏み入れたのは社会人2年目のブラック企業勤めからのうつ病の罹患の経験によるところが大きいですが、これを克服するまで、Enishiは完全な理系人間で物理世界と人間の感情なんてのは完全な別物というスタンスを取っていました。ところが、同時期におなじセラピストの先生にお世話になっていた人達が次々にうつ病やら精神的な問題を克服していくなかで彼らの身の回りに起きたことを目の当たりにすることで、現実=心象世界の鏡像ということを深く理解することになりました。
例えばうつ友の女性のある人は、10年間も引きこもっていたのですが、お母さんが毎日自室に届けてくれるオニギリの味にとても敏感になっていました。コメの味が良く分かる。それについて語り出すと彼女はとても目が輝くので、セラピストの先生はそれを核にして彼女の夢を具体的にするという作業をやりました。結果、彼女の夢が明らかになりそれは「ヨーロッパのどこかの国でオニギリのレストランを開く」ということにまとまりました。彼女はとても元気になったので、セラピー卒業のお祝いを、とどこかの飲み屋さんで食事をしていました。向精神薬をやめた彼女もお酒を飲んだのですが、いつものお米の蘊蓄により勢いが付きます。その会話を隣の席で聞いている男性がいました。「随分とコメに詳しいんですね」そこから彼らの会話に花が咲き、なんとその男性は、欧州向けにコメを卸している会社の社長さんだったのです。彼女のオニギリのレストランの夢を聞いて、「面白い!資金はなんとかするから、一緒にやってみよう!」と話がその場でまとまってしまったのです。第1号店はイタリアに開くことになったので、彼女は半年掛けてイタリア語を勉強して、ヨーロッパへと旅立ちました。
こんなイベントは枚挙に暇がないそうで、やはり「現実世界=心象世界の鏡像」ということに確信を深めるばかりです。
まとめ
そんなわけで、我々が見ている現実というのは、決して固定された客観的な真実としてのモノではないのです。もの凄く精巧に、物理法則に則るように作られていますが、根っこの部分ではどうも、自由自在のようです。
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