受験に臨んだ際の学習のスタンス=仕事に取り組むスタンス?

政治と経済

政府主導での「働き方改革」が主には上場企業界隈には浸透してきている模様。日本人は残業に次ぐ残業で効率の悪いところを時間でカバーして製造業の国として一度は世界を席巻したのですが、そういう滅私奉公的な働き方を善とする昭和的な価値観はそろそろやめにしませんかということで、Ennisは歓迎しています。(Ennisがブラック企業での月間200時間残業でカラダを壊してうつ病になったということはこちらで述べている通り)しかし、『なるべく短時間で、命ぜられた結果を出す』ということは、多分言うほど簡単ではなく、人間の個体それぞれにどうしても生じる生来の能力の差というものがものすごくオモテに出てくるのかもなあと思ったのでそれをこちらに書いておこうと思いました。

人間の能力のあれこれ

ここでは「能力」というのを「頭脳の能力」に絞って論じます。そうすると、人間の能力というのは、究極的には「頭の回転速度」「短期記憶力」「長期記憶力」の3つです。コンピューターで言うと、回転速度はCPUのクロック数、短期記憶力はメモリの容量、長期記憶力はハードディスク(もしくはSSD)の容量です。それぞれの要素が、速い、沢山覚えられる、沢山保管できるほど学力は高く、それゆえに仕事の能力も高いということになろうかと思います。

大企業ほど高学歴な人間を採用したがりますが、それは大学に入る時点での受験勉強の要素というものが、仕事においても似通ったものであり、それゆえに勉強ができる人間=仕事ができる人間という相関関係が成り立っているからです。(これには諸説あってもちろんすごい大学を出ていても正直大した仕事のできないひともいるにはいます。でもこれは確率論と統計のお話であって、大学受験で成功した人は仕事でも成功しやすいのは、毛港としてはもはや疑いようのない事実です。)

ところが、受験勉強と仕事には、いくつか決定的な違いがあります。受験勉強=一人でやる、やる気次第で取り組む時間はかなり増やせる。仕事=一人でできることにはかなり限りがある。やる気だけあっても時間にはかなりの制約がある。ということです。このうち受験の「やる気次第で取り組む時間はかなり増やせる」というのが、今回働き方改革によってもたらされる「仕事の時間の短縮」という事象によって、「努力家タイプで受験に成功した人」が結構憂き目を見る、というか「学歴を見て能力の期待値がとても高かったが、仕事をさせてみたらそれが遅くて仕方がない」ということを多発させるのではないかと思うのです。

受験勉強は一人、時間は自由自在

昔、4当5落(睡眠時間を4時間まで削って学業に励める人間は合格し、5時間睡眠時間をとるような人間は受験には勝てない、という意味)なんて言葉があったように、大学受験には相当の努力が実際必要です。Ennisもそうでした。高校に進学した際、『東大だろうが早稲田だろうが慶応だろうが、余裕で受かるだけの能力を獲得して大学受験はぶっちぎりで終わらせる』という目標を持っていたので、今思うと強迫神経症を疑いたくなるような勉強の仕方でした。

部活もせず、家に帰ってきて入浴と夕飯を済ませたら、19:30~23:30まで4時間をぶっ続けで勉強するというのを月曜日~金曜日の毎週5日間、土日は午前は6:00~9:00まで3時間を勉強に費やす、午後は平日と同様に19:30~23:30までを勉強に費やす、というのを現役と浪人1年の合計4年間、風邪を引いたりして休んだり旅行にいったりといった数日をのぞいて本当に間断なく続けていました。月を4週間とすると、ウィークデーに残業毎日4時間、土日に7時間×2で14時間ですから週に34時間、これを4週間ですから一か月に136時間も勉強していたのです!

学校で学んだ時間だけでは身につかないからということで上記のような、家に帰ってからの時間を使っていたわけですから、いわばそれは「残業」です(笑)つまり、月間136時間を使ってそれを4年間続けたことでだれもがうらやむ日本の最高学府の1つに入学できたわけですが、努力と言えば聞こえはいいものの、Ennisは会社でいうなら「とんでもない時間数の残業をした」といえなくもないのです。

大学には、いわゆる「天才肌」の人間も結構いました。授業で聞いた内容はほとんど忘れないし、「試験勉強のための勉強時間」というのをほとんど費やした記憶がないとか、本を読むとそれが頭の中に画像として保存されているので、暗記モノの試験問題は、その画像を頭の中で引っ張り出してきて転記すれば回答になってしまう、とかそういう類の人間です。恐ろしく頭の回転が速く、チェスや将棋で勝負をしていると「Ennisが次の手、次の次の手で何を打ってくるかというのが手に取るように分かる」と言い放ったやつとか。当然彼らは東大生らしい就職先を得て社会人になって行きました。(同期としてごく普通の民間にいるのは実はEnnisだけです。他は中央官庁とか、公団とかのいわゆる公務員です)

多分、こういう「頭の回転が速い」「記憶力もある」というタイプの人間は、働き方改革で労働時間が減ったとしてもおそらくどうってことなく乗り越えていくのだろうと思います。ところが問題は「頭の回転が遅い」というところを、時間数(粘り強さ)で補って受験を突破してきたタイプのいわゆる努力家・苦学生と呼ばれるような人格の人たちで、彼らは「結果が出るまで時間を使い続ける」わけですがその「普通の人が費やせる以上の時間を使うのはフェアじゃない」という価値観が働き方改革によって一般的になってしまうと、努力そのもの(=自分の時間を費やして取り組むこと)を否定されてしまいます。

頭の回転の速さを数値化できないものか

試験という結果が同点だったとしたら、効率の良さというのはそこに至るまでの学習の時間量で決まります。Ennisの場合は、平均的な頭脳のクロック数と比べておそらく3割程度おそいCPUが搭載されているのを、時間を2-3倍かけることで補ったということに他ならないと考えています。平均的な頭脳のクロック数を100として、それでも普通の人が1時間しか勉強しないところを、70のクロック数しか持ってないEnnisは3倍の3時間をかけることで結果を210にまでもっていった、ということです。「3倍の時間を掛けられるだけの粘り強さ、意思の強さだってその人の能力だ」と言ってもらえるとありがたいしそれはその通りなのですが、時間という条件を同一にされると分が悪いのが、Ennisの脳みそなのです。(実際、高校生の時にディベート大会に参加してみて痛感しました。ああいう丁々発止のやりとりには頭脳の回転スピードこそがものを言います。Ennisはダメダメでした。ホント。)

恐ろしく頭の回転が速い東大生、頭の回転は遅いがものすごく努力家の東大生、社会に出た時に仕事に費やせる時間の絶対量を同一条件で区切られると、努力家は時間量で補わなければならないところ、とっても分が悪い。不遇です。

社会全体が、労働時間の短縮、仕事の効率化というところに流れていこうとするとき、それの担い手である労働者側にも必要な資質が変わってくる。勉強の仕方にも「がむしゃらに時間量を増やして努力する」というスタンスからもう少し洗練されたものが必要になってくると思います。その方法で「受験のみにおいては」結果の出せた人間が、圧倒的に短くなった労働時間の中で成果を求められたときに情けない結果しか出せなくなる可能性がある。こういうミスマッチはなかなか不幸です。

少し会話をしてみればたちどころに分かるのですが、その人の「頭の回転の速さ」というのは感覚としては分かっても数値化された指標は存在しません。しかもそれは会話を通じての話であって、飽くまで「自分と比較して早いか遅いか」という感覚的なものになるのでなんともつかみどころがありません(笑)

何か、ある程度指標になるものが存在すれば例えば「天才肌の東大生」「努力家・粘り強さのある東大生」という同じ東大生でも能力の違いみたいなものがある程度把握できるようになり、もしくは努力の方向性としてもただ時間を増やすよりも「頭の回転スピードを上げるための努力」のようなものができるようになるんじゃないかと思うのです。

まとめ

労働時間の短縮、という社会的な努力は巡り巡って受験勉強の仕方・スタイルというところにも多分、影響してきます。「脳のクロック数」を向上させるという努力が、時間を費やすことと同等以上に重要にはるはずです。

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