攻殻機動隊という作品の別解釈

精神世界

日本のアニメで攻殻機動隊といえば、映画マトリックスの監督がこれにインスパイアされてマトリックスを作ったというくらいの名作です。これをきっかけとして「ジャパニメーション」というジャンルが確立され、米国のレンタルビデオ屋さんにはその名称の棚がそれぞれのお店に設けられるようになったというくらいのターニングポイントになった作品です。

人間の意識とは?

この作品は、、言うなれば「人間の意識とは何か?」というかなり哲学的なテーマに踏み込んだ内容で、押井守監督のライフワーク的な作品です。義手、義足、義眼・・とそこに技術革新が絡んで最終的に「義体」という人間のカラダ全体を機械化する技術が生まれ、脳髄の一部を除いて完全に機械化された特殊部隊のメンバーが登場します。

脳髄の機能も含めて100%完全な義体というのも作ることは技術的には可能という設定なのですが、それだったとしても機会のカラダに「人格」を宿すということにまでは至れなかった、ということになっており、その最後の1%部分みたいなところが人類にはマネできない要素として「ゴースト」と呼ばれています。魂と呼んでも良いかも知れないです。

OLさんの解釈が面白い

今の所映画の二作があり、一作目では草薙素子(くさなぎもとこ)という、全身が義体というサイボーグなんだが意識だけは人間(脳髄だけが生身)という女性が、最終的にはインターネット上に偶発的に生まれた意識体である「人形使い」という存在と融合して、いうなれば自分の意識を「クラウド側に」持つような変貌を迎えます。

二作目では、物語終盤の主人公バトーのピンチに、クラウド側から意識の一部を小さな少女の義体(すっぽんぽん)にダウンロードして活動出来るようになった素子が現れて、彼を救います。

とても深淵な作品なのですが、諸々の背景とかをまったく知らないOLさんが「なんか面白そうなアニメ」というくらいの軽いノリで2作品を通しで見た時の感想が何かの週刊誌に載っていまして

『一作目では、意識をクラウド側に持って行かれたことで素子さんが自分の手に届かない存在になってしまったバトー君の失恋のお話』

『二作目では、自分のピンチに素子さんが2年ぶりに、仮の姿とはいえ自分と素子さんの記憶をしっかり共有している形で現れてくれて嬉しかったんだがその再会もほんの30分くらいで終わってしまったという、やっぱりバトー君のとっても切ない片思いのお話』

という感想だったという(笑)

見た人の解釈と時として監督の意図を遥かに超える

押井監督自身がこのレビューを読んで全くそんなつもりで作った作品じゃないのですが、そういう見方もあるというのが新鮮な驚きだったと述べておられます。

小さな義体に降りてきた素子サンは人形とはいえ女性の外見でスッポンポンなのです。その身体にバトー君は防弾チョッキなんだけど着させてあげるという粋な男(彼も全身義体なので、防弾チョッキはほぼ必要ない人なのですが)

小説で長編を書いていたところ、読者がその物語の中にある法則性を発見して「これこそがこの物語に仕込まれた最大の伏線であり、こんなものを盛り込んで話を描く著者は凄い!」といったことを語ったところ、その著者の方が「いや、全くそんなつもりは無かったのだがそんなことになってしまっていた」という。

物語に不思議な要素が勝手に仕込まれる不思議、解釈によって物語にまた全く別の価値が付与される不思議。面白いですね。

まとめ

深遠な作品には幾重にも意味と価値が、多次元的な解釈が神の手か何かによって盛り込まれるのかもしれません。

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